「魏志倭人伝」時代の倭国 その13
「魏志倭人伝」時代の倭国今回は邪馬台国が北九州に存在できない三つ目の理由を検討します。
3邪馬台国を北九州に加えると、地域の総人口が日本の推計総人口を越える。
200年頃の日本の総人口は歴史人口学者が60万人、その他の研究機関が50万人、70万人との推計を出しています。そこで、「魏志倭人伝」の記述から各国の人口を推計してみましょう。一戸当たり3.5人の前提で計算します。
国名 戸数 人口
狗邪韓国(朝鮮半島南端部) 不明 3,500人(推定)
對海国(対馬) 千戸 3,500人
一大国(壱岐) 三千戸 10,500人
末盧国(唐津市の東松浦半島) 四千戸 14,000人
伊都国(糸島市付近) 千戸 3,500人
奴国(福岡市付近) 二万戸 70,000人
不弥国(福岡県宇美町など) 千戸 3,500人
女王国(伊都国内南部) 婢と兵士 1,500人(推定)
小計 三万戸 110,000人
(卑弥呼の女王国とその北側にある国で合計8国)
斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の21国。
21国の小計(一国当たり千戸として推計)二万千戸 73,500人
(注:吉野ケ里を中心とした国はもっと大きいと思われるが、千戸より小さい国もある可能性を考慮し、平均で一国当たり千戸とした)
狗奴国(不明:卑弥呼に敵対する実力から一万戸と推計) 35,000人
(注:狗奴国は熊本県の菊池川流域に比定され、方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡からは多数の土器、鉄鏃、刀子、手鎌、石包丁形鉄器、鉄斧など武器その他の鉄製品、巴形銅器、銅鏃、小型仿製鏡などの銅製品が出土しています)
倭国30国の合計人口 218,500人
投馬国 五万戸 175,000人
邪馬台国 七万戸 245,000人
小計 420,000人
総合計 638,500人
いかがでしょう?里数と戸数不明の21国を各千戸と最小限に見積もっても、邪馬台国と投馬国を含めた前提での北九州の人口が日本の推計総人口を越えてしまいました。仮に日本の推計総人口が60万人の三倍で180万人であったとしても、その3割以上が北九州にいるなど有り得ない話です。
よって邪馬台国は北九州に存在できません。(注:弥生時代の人口に関する内閣府の記述は以下の2ページ目を参照ください。ここには歴史人口学の研究者である鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」を引用して60万人と書かれています)
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/pdf_h/pdf/g1010100.pdf
ここまでの検討に限れば200年頃の人口に関し、日本全体で60万人に対し北九州が8国+21国+狗奴国で218,500人となっています。ややくどくなるかもしれませんが、人口問題は重要なので別の視点からも見ていきます。
歴史人口学者である鬼頭宏氏によれば、日本全体の60万人に対する北九州(注:鬼頭氏のデータは北九州と言う場合、壱岐、対馬、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前の前提)の人口は驚いたことに40,500人しかいないことになっています。詳細は「Wikipedia」記事を参照ください。
上記から、「魏志倭人伝」を基に割り出した倭国の人口は歴史人口学者の見解の5.4倍になってしまいます。あまりの違いに腰が抜けそうな気分ですが、さてはて、学者さんの数字と「魏志倭人伝」の数字のどちらがより実際に近いのでしょう?
北九州に関して狗奴国も含む前提で考えれば、肥後の一部も含めることになり、仮に北九州で50,000人としても、日本の全体数である60万人の8.3%に過ぎないことになります。そんな馬鹿なと思われるでしょうが、現在の日本の総人口に対する、福岡、佐賀、長崎、大分、熊本各県の合計を%で見たところ、驚いたことに約8%と、ほとんど変わらない数字が出てきました。こうなると、「魏志倭人伝」の戸数に関する記事が相当盛られている可能性もありますし、逆に人口学の専門家による日本の総人口60万人の数字も絶対視はできません。
どんな設定で見るのが適切なのか悩みますが、試しに200年代の北九州倭国の推定総人口である218,500人(「魏志倭人伝」に基づく数字)を8%で割ってみました。この場合、日本の推定総人口は273万人となります。273万人は「魏志倭人伝」をベースにして北九州の総人口に邪馬台国と投馬国を含めない前提での数値です。明確な根拠はないものの、この総人口の場合、ひょっとしたら有り得るかもしれません。
仮に邪馬台国と投馬国を含むとした場合はどうでしょう。638.5千人を8%で割ってみると、200年頃の日本の総人口は約800万人になり、戸籍制度が整ってきた奈良時代でも450万人程度なので、全く非現実的なものとなってしまいます。以上の人口に関する考察から、やはり邪馬台国と投馬国は北九州に存在しなかったと確認されるはずです。
人口問題を別の角度から見るため、神話に彩られた出雲の人口を「出雲国風土記」から推計してみます。出雲には意宇郡、島根郡、秋鹿郡、楯縫郡、神門郡、飯石郡、仁多郡、大原郡の9郡があり、その下に50戸を一郷とする郷が62存在します。他にも50戸にならない余戸(あまりべ、各30戸と仮定)が四つと駅家が六ケ所、神戸が七つありました。
一戸当たりの人数は家族集団なので25人とされます。(注:「魏志倭人伝」の場合、戸ではなく家と書かれ一軒の家の人数となります)
従って、8世紀前半頃における出雲の計算上の総人口は、
25人x50戸x62郷+25人x30戸x4=80,500人となります。
これに駅家、神戸、その他朝廷に把握されていない人々を加えると、83,000人程度が出雲国における8世紀前半頃の推計総人口になります。
200年頃の歴史人口学者による推定総人口は60万人ですから、それを奈良時代の450万人で割ると13.3%になります。ここから200年頃における出雲の総人口を算出すると、83千人x13.3%=11,039人にしかなりません。この時代に郡は存在しませんが、奈良時代の出雲には9郡あった訳で、これに200年頃の人口を当てはめると、計算上の平均では一郡当たり僅か1,300人と言う薄さです。
荒神谷遺跡では弥生時代中期後半に製作されたとみられる358本の銅剣、銅鐸6個と銅矛16本が出土していますが、全体で1万人強の人口(注:弥生中期後半なら人口はもっと少ないはず)しかなく、出土地域一帯ではせいぜい1,300人程度の人口なのに、どうしてこれほどの数の銅剣があるのか理解に苦しみます。
さらに弥生時代後期後半から出雲で広まった四隅突出型墳丘墓に関しても、3世紀前後に出雲市で西谷3号墓(最長辺約50メートル)が築造されています。先代、当代卑弥呼の時代とほぼ同じ時期に、平原1号墓の2倍になる墳丘墓を圧倒的に少ない人口規模でどう築造したのか不可解です。
この疑問を解消するには、200年頃における出雲の総人口をもっと多く設定する必要がありそうです。例えば、200年頃の日本の推定総人口を既に書いたように273万人と見て、これをベースに計算すれば出雲の総人口が5万人の数字となるので、数多くの銅剣や50mの墳丘墓もある程度納得できそうな話になってきます。
加えて出雲における5万人の人口は、上記した北九州倭国(北九州の主要地域に相当)の推定人口218,500人ともバランスが取れることになります。従って、歴史人口学者や研究機関の推定人口より、「魏志倭人伝」の記述の方がより実際に近いと思われます。
ここまで邪馬台国問題を人口の観点から見てきましたが、その場合でも、邪馬台国は北九州に存在できないと確認されました。
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