「魏志倭人伝」時代の倭国 その13

「魏志倭人伝」時代の倭国
02 /24 2021

今回は邪馬台国が北九州に存在できない三つ目の理由を検討します。

3邪馬台国を北九州に加えると、地域の総人口が日本の推計総人口を越える。
 200年頃の日本の総人口は歴史人口学者が60万人、その他の研究機関が50万人、70万人との推計を出しています。そこで、「魏志倭人伝」の記述から各国の人口を推計してみましょう。一戸当たり3.5人の前提で計算します。

国名             戸数         人口
狗邪韓国(朝鮮半島南端部)  不明         3,500人(推定)
對海国(対馬)        千戸         3,500人
一大国(壱岐)        三千戸        10,500人
末盧国(唐津市の東松浦半島) 四千戸        14,000人
伊都国(糸島市付近)     千戸         3,500人
奴国(福岡市付近)      二万戸        70,000人
不弥国(福岡県宇美町など)  千戸         3,500人
女王国(伊都国内南部)    婢と兵士       1,500人(推定)
小計             三万戸       110,000人
(卑弥呼の女王国とその北側にある国で合計8国)
                        
斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の21国。
21国の小計(一国当たり千戸として推計)二万千戸   73,500人 
(注:吉野ケ里を中心とした国はもっと大きいと思われるが、千戸より小さい国もある可能性を考慮し、平均で一国当たり千戸とした)

狗奴国(不明:卑弥呼に敵対する実力から一万戸と推計) 35,000人 
(注:狗奴国は熊本県の菊池川流域に比定され、方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡からは多数の土器、鉄鏃、刀子、手鎌、石包丁形鉄器、鉄斧など武器その他の鉄製品、巴形銅器、銅鏃、小型仿製鏡などの銅製品が出土しています)
 
倭国30国の合計人口                 218,500人

投馬国            五万戸         175,000人
邪馬台国           七万戸         245,000人
小計                         420,000人
 
総合計                        638,500人
 
いかがでしょう?里数と戸数不明の21国を各千戸と最小限に見積もっても、邪馬台国と投馬国を含めた前提での北九州の人口が日本の推計総人口を越えてしまいました。仮に日本の推計総人口が60万人の三倍で180万人であったとしても、その3割以上が北九州にいるなど有り得ない話です。

よって邪馬台国は北九州に存在できません。(注:弥生時代の人口に関する内閣府の記述は以下の2ページ目を参照ください。ここには歴史人口学の研究者である鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」を引用して60万人と書かれています)
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/pdf_h/pdf/g1010100.pdf

ここまでの検討に限れば200年頃の人口に関し、日本全体で60万人に対し北九州が8国+21国+狗奴国で218,500人となっています。ややくどくなるかもしれませんが、人口問題は重要なので別の視点からも見ていきます。

歴史人口学者である鬼頭宏氏によれば、日本全体の60万人に対する北九州(注:鬼頭氏のデータは北九州と言う場合、壱岐、対馬、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前の前提)の人口は驚いたことに40,500人しかいないことになっています。詳細は「Wikipedia」記事を参照ください。

上記から、「魏志倭人伝」を基に割り出した倭国の人口は歴史人口学者の見解の5.4倍になってしまいます。あまりの違いに腰が抜けそうな気分ですが、さてはて、学者さんの数字と「魏志倭人伝」の数字のどちらがより実際に近いのでしょう?

北九州に関して狗奴国も含む前提で考えれば、肥後の一部も含めることになり、仮に北九州で50,000人としても、日本の全体数である60万人の8.3%に過ぎないことになります。そんな馬鹿なと思われるでしょうが、現在の日本の総人口に対する、福岡、佐賀、長崎、大分、熊本各県の合計を%で見たところ、驚いたことに約8%と、ほとんど変わらない数字が出てきました。こうなると、「魏志倭人伝」の戸数に関する記事が相当盛られている可能性もありますし、逆に人口学の専門家による日本の総人口60万人の数字も絶対視はできません。

どんな設定で見るのが適切なのか悩みますが、試しに200年代の北九州倭国の推定総人口である218,500人(「魏志倭人伝」に基づく数字)を8%で割ってみました。この場合、日本の推定総人口は273万人となります。273万人は「魏志倭人伝」をベースにして北九州の総人口に邪馬台国と投馬国を含めない前提での数値です。明確な根拠はないものの、この総人口の場合、ひょっとしたら有り得るかもしれません。

仮に邪馬台国と投馬国を含むとした場合はどうでしょう。638.5千人を8%で割ってみると、200年頃の日本の総人口は約800万人になり、戸籍制度が整ってきた奈良時代でも450万人程度なので、全く非現実的なものとなってしまいます。以上の人口に関する考察から、やはり邪馬台国と投馬国は北九州に存在しなかったと確認されるはずです。

人口問題を別の角度から見るため、神話に彩られた出雲の人口を「出雲国風土記」から推計してみます。出雲には意宇郡、島根郡、秋鹿郡、楯縫郡、神門郡、飯石郡、仁多郡、大原郡の9郡があり、その下に50戸を一郷とする郷が62存在します。他にも50戸にならない余戸(あまりべ、各30戸と仮定)が四つと駅家が六ケ所、神戸が七つありました。

一戸当たりの人数は家族集団なので25人とされます。(注:「魏志倭人伝」の場合、戸ではなく家と書かれ一軒の家の人数となります)
従って、8世紀前半頃における出雲の計算上の総人口は、
25人x50戸x62郷+25人x30戸x4=80,500人となります。
これに駅家、神戸、その他朝廷に把握されていない人々を加えると、83,000人程度が出雲国における8世紀前半頃の推計総人口になります。

200年頃の歴史人口学者による推定総人口は60万人ですから、それを奈良時代の450万人で割ると13.3%になります。ここから200年頃における出雲の総人口を算出すると、83千人x13.3%=11,039人にしかなりません。この時代に郡は存在しませんが、奈良時代の出雲には9郡あった訳で、これに200年頃の人口を当てはめると、計算上の平均では一郡当たり僅か1,300人と言う薄さです。

荒神谷遺跡では弥生時代中期後半に製作されたとみられる358本の銅剣、銅鐸6個と銅矛16本が出土していますが、全体で1万人強の人口(注:弥生中期後半なら人口はもっと少ないはず)しかなく、出土地域一帯ではせいぜい1,300人程度の人口なのに、どうしてこれほどの数の銅剣があるのか理解に苦しみます。

さらに弥生時代後期後半から出雲で広まった四隅突出型墳丘墓に関しても、3世紀前後に出雲市で西谷3号墓(最長辺約50メートル)が築造されています。先代、当代卑弥呼の時代とほぼ同じ時期に、平原1号墓の2倍になる墳丘墓を圧倒的に少ない人口規模でどう築造したのか不可解です。

この疑問を解消するには、200年頃における出雲の総人口をもっと多く設定する必要がありそうです。例えば、200年頃の日本の推定総人口を既に書いたように273万人と見て、これをベースに計算すれば出雲の総人口が5万人の数字となるので、数多くの銅剣や50mの墳丘墓もある程度納得できそうな話になってきます。

加えて出雲における5万人の人口は、上記した北九州倭国(北九州の主要地域に相当)の推定人口218,500人ともバランスが取れることになります。従って、歴史人口学者や研究機関の推定人口より、「魏志倭人伝」の記述の方がより実際に近いと思われます。

ここまで邪馬台国問題を人口の観点から見てきましたが、その場合でも、邪馬台国は北九州に存在できないと確認されました。
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「魏志倭人伝」時代の倭国 その12

「魏志倭人伝」時代の倭国
02 /23 2021

前回までで、女王国や倭国、邪馬台国の構成・位置などに関する諸問題の検討が完了し、邪馬台国は北九州に存在できないと確認されました。もちろんこれだけではなお不十分なので、今回からは邪馬台国問題を項目別に様々な角度から検討していきます。

1女王国、倭国の位置や構成から判断して邪馬台国を北九州に置く余地はない。
 上記は今までに検討してきた内容ですが、「魏志倭人伝」を分析なしに素直に読んでも、方位や日数に疑問はあるものの、邪馬台国は北九州の範囲内ではあり得ず、遠隔地に存在すると理解されます。

2邪馬台国が北九州にあったら倭国大乱は起きていない。
 「魏志倭人伝」には、七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、などとあり、「後漢書」にも、桓帝と霊帝の治世の間(146年~ 189年)、倭国は大いに乱れ、相争った。とあります。長く続く争いに疲弊した各国は相談の上卑弥呼を共立しました。その結果一旦争いは収まりますが、卑弥呼の晩年には狗奴国との争いが起きています。

卑弥呼の後にも争いは続きます。「魏志倭人伝」によれば、(卑弥呼の死後)男王が立ったものの、国中が不服で互いに争い、千余人が殺された、とのこと。これらの記述から倭国は小国が乱立し、小休止はあったものの、常に相争う状態が続いていたと理解されます。(注:倭国の範囲は既に書いたように熊本県の北部を含む北九州の主要地域と考えられ、「魏志倭人伝」によれば当初は百余国あり、後に30国に集約されています)

そうした倭国の状況を踏まえた上で、北九州沿岸の里程と戸数が表示されている各国を見ると、末盧国四千戸(14,000人)、伊都国千戸(3,500人)、奴国二万戸(7万人)、不弥国千戸(3,500人)となっていました。(注:一戸当たり3.5人で計算)

これらは倭国の主力とも言えそうな国々です。他に里数と戸数が不明な21国(注:吉野ケ里を中心とした国以外はどれも小国と推定)、卑弥呼と敵対した狗奴国(注:戸数は多いと想定される)があります。これらに朝鮮半島の狗邪韓国や対海国(対馬)、一大国(壱岐)、女王国を含めたものが合計30国で北九州の倭国となります。

30国の推定人口は次回で検討しますが、常に戦乱が起きる条件を考えてみましょう。考えるまでもなく、それは上記したように小国が乱立しているからと容易に想定されます。仮に圧倒的に大きな国、例えば30国とは別に7万戸(24万5千人)を擁する邪馬台国が北九州倭国内にあったとすれば、同国の有する人口パワーから大乱など起きるはずがないのです。

よって邪馬台国が北九州にあるとの主張は、「魏志倭人伝」や他の中国史書の記述に不整合となり、間違いだったと確認されます。(注:邪馬台国が卑弥呼共立によりできた国との反論もあるでしょうが、共立により一瞬にして7万戸の国が登場したと考えるのは不自然で不合理です)

野鳥たち

未分類
02 /22 2021

この季節、我が家の小庭にも色々な野鳥がやって来ます。シジュウカラ、ツグミ、キジバト、メジロ、ヒヨドリ、ハクセキレイ、スズメ、ジョウビタキ、ムクドリなどですが、常連はメジロ、スズメ、ヒヨドリと言ったところでしょうか。

メジロは、もう季節的には終わりましたが、サザンカやヤツデの花の蜜を吸いに来ますし、ヒヨドリは南天や千両、万両の赤い実を狙います。その結果、2月になればこれら冬を彩る赤い実はきれいさっぱり食べ尽くされ、寂しい庭になってしまうのです。

憎っくきヒヨドリめとの個人的感想はさておき、野鳥の生態を見るためミカンの半切れを枝に刺しておいたところ、早速二羽のメジロが食べに来ました。メジロはミカンを突っついては辺りの様子を伺い、また食べると言った動作を繰り返します。メジロは小型の鳥なので、常に警戒し周囲に気を配っているのでしょう。そして一羽が満足して枝から離れると、すぐにもう一羽が来て食べ始めます。

緑の羽根色のきれいなメジロですが、その姿かたちに反して結構意地が悪く、枝から離れた一羽が戻り、食べている一羽を追い払ってまた食べ始めます。もう少し観察するため、ミカンの一房を皮をむいて庭に投げたところ、弱い方のメジロが先に食べ始めましたが、そこへ強い方が来て邪険にも追い払ってしまいます。弱い方はと言うと、木の枝にとまって強い方が食べ終わるのをじっと待ち続けていました。

かわいそうにと思いもう一房のミカンを投げて弱い方に与えると、一心不乱に、但し当たりの様子も伺いながら、食べ始めます。時間差があるので強い方は先にミカンを食べ終わり、また弱い方を追い払ってそのミカンを食べ始めるのです。二羽は一緒に行動しているように見えるのに、自然界の強者弱者の掟は厳然としてあるようです。

二羽が同時にミカンを食べているとき、キーキー声のヒヨドリがやって来ると、二羽ともあっという間に追い払われ、ミカンの半切れの場合でも中身はすぐになくなってしまいます。弱者のささやかな餌を奪う狼藉者と思いましたが、昔の人も同じ思いだったのか、ヒヨドリを漢字で書くと「鵯」で卑しい鳥となります。まさに名は体を表す、ですね。ヒヨドリは他の場面でも登場します。

酔石亭主が朝のまどろみの中にいるときなど、ヒヨドリがひきつったような、腹から絞り出したような、はたまた歯の潰れたノコギリで板を切っているときのような、キイィ~、ギイィ~と甲高い不協音でいつ果てるともなく鳴き続けるのです。これではおだやかな朝の気分も害されてしまい、頭を掻きながら起き上がるしかなくなります。せめて朝の訪問者だけでも、高原の樹々の中で囀るような小鳥であってほしいのですが、街中ではどうにもなりません。

面白いのは、スズメとメジロの関係で、スズメもたまにミカンを食べますが、メジロが食べていてもそのすぐ横で枝にとまっていて、追い払うような仕草は見せません。それどころか、枝に刺したミカンの半切れをスズメとメジロが一緒に食べていることさえあります。

人間様との関係で行くと、メジロは酔石亭主がすぐ近くに行っても食べ続けており、人への警戒心は薄いようです。常に人家の近くにいるからでしょうか?スズメもメジロほどではありませんが、ある程度近くまで寄ることができます。逆に警戒心が強いのはヒヨドリで、窓越しに動いただけで逃げていきます。もちろんスズメやメジロの場合、そんなことは一度もありません。

このように、小さな庭で鳥たちの営みを観察するのも楽しいものです。

「魏志倭人伝」時代の倭国 その11

「魏志倭人伝」時代の倭国
02 /21 2021

前回までの検討で、女王国と倭国の位置や構成に関して一応の結論が出ました。今回は行程や各国の位置を示す記事の順序問題を取り上げつつ、北九州東岸部の女王国と邪馬台国問題に迫りたいと思います。その検討をスムーズに進めるため、以下の内容を再々度書いておきます。

①郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。
②始めて一海を度る。千余里。対海国(対馬)に至る。千余戸有り。
③又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国(壱岐)に至る。三千ばかりの家有り。
④又、一海を渡る。千余里。末盧国(唐津市一帯)に至る。四千余戸有り。
⑤東南陸行。五百里。伊都国(糸島市一帯)に到る。千余戸有り。
⑥東南、奴国(福岡市から春日市一帯)に至る。百里。二万余戸有り。
⑦東行、不弥国(宇美町一帯)に至る。百里。千余家有り。
⑧南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。
⑨南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。
⑩女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
⑪次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。(注:合計21国)ここは女王の境界尽きる所。
⑫その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。
⑬郡より女王国に至る。万二千余里。
⑭女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
⑮女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて…以下略。

①から⑦までは帯方郡の使節が訪問した場所で連続性があり、何ら変更はありません。⑧、⑨は既に書いたように、起点となる場所の明示がなく、また方位も南では水行になると言う大問題を抱えています。

ちなみに他の方位はどうでしょう?北の場合は元に戻る形になり有り得ません。西の場合も最終的には東シナ海に出てしまうので有り得ないことになり、選択可能な方位は東のみとなります。いずれにしても、⑦の不弥国の後に⑧、⑨は配置できないことから、上記の中で適切な配置場所が出てくるまで横に置きます。

次の⑩に書かれているのは行程そのものではありませんが、女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、との内容から、戸数、道里が書かれた末盧国から不弥国までの南側に女王国が存在することを示す位置情報の記事となっています。(注:既に書いたように女王国の実際の位置は伊都国内の南部となります)

末盧国の④から不弥国の⑦までの4国は女王国の北にあり、⑦の後に女王国より以北と書かれた⑩と⑭の記事が続きます。

その次は⑪に書かれた21国で、①から⑦の7国、⑪の21国に女王国を加えたもので合計29国となります。その次が⑫の狗奴国で菊池川流域の菊池市、山鹿市、玉名市などを含む熊本県北部一帯に相当し、29国に⑫を加えたものが倭国(合計30国)となります。以上は前回で書いたように卑弥呼時代の倭国を示したもので、残る国々は後代情報が書かれたものや、⑮の倭国の範疇から外れる国邑となるので具体的に見ていきましょう。

後代情報の最初が⑬で郡より女王国に至る。万二千余里。と書かれていました。一方帯方郡から不弥国までの里数は各国ごとに書かれており、合計は一万七百余里。その差は千三百余里で約100㎞あります。不弥国から約100㎞を東方向に海岸沿いに進む、或いは南に下った上で朝倉市、うきは市、日田市方面と東方向に移動すれば、間違いなく北九州東岸に至り、京都郡苅田町、行橋市、豊前市や宇佐市辺りが相当すると考えられます。

北九州東岸部の女王国は卑弥呼ではなく台与の時代の話と推定されます。従って、伊都国内南部にあった女王国は台与の時代(250年代前半)になって北九州内を東遷し東岸部に着いたことになりそうです。もちろんこの段階ではほとんど空想に近い話に過ぎず、「魏志倭人伝」の記述以外に女王国が北九州東岸部に移動したとする根拠を探さなければなりません。

あれこれ調べたところ、「豊前風土記」の逸文には、宮処の郡(福岡県京都郡)。むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天降った。おそらく、天照大御神の神京(みやこ)だろう。と書かれていました。京都郡から直線距離で約35Kmの宇佐市は、饒速日尊や神武天皇が東遷の際立ち寄った場所で、彼らはその後大和に向かっています。

また宇佐市は邪馬台国宇佐説が唱えられた地でもありました。仲津郡(現在の福岡県行橋市・京都郡みやこ町)は秦氏が多く、「隋書」で秦王国と称された場所に相当します。天照大神の元伊勢第一号である笠縫邑は秦氏の秦楽寺境内にあります。天照大神高座神社の神宮寺は秦川勝が創建したとされる教興寺となり、天照大神には秦氏の関与が見られます。

京都郡苅田町、行橋市、豊前市、宇佐市一帯に天照大神の関係地や邪馬台国の候補地が存在するのは、取りも直さず女王国の移動先がこの一帯のどこかであったことを暗示しています。(注:他にも幾つかの根拠を示せそうですが、それらは後の回とします)

以上で、伊都国内の南部にあった女王国が北九州東岸部に移動した点と、それが卑弥呼の女王国より後代の情報になる点が確認され、⑬の次に⑮女王国の東、海を渡ること云々の記事を配置できることになります。

ここまで見てきて、まだ配置できていない国がありますね。そう、⑧の投馬国と⑨の邪馬台国です。最後まで見てきてその途中に配置する場所がない以上、⑧と⑨は⑮の後に入れるしかありません。と言うか、ここが正しい位置になるのです。

⑮は女王国の東、海を渡る云々ですから、それに続く⑧、⑨も南ではなく、
⑧(女王国の)東、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。
⑨東、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

となるでしょう。ようやく邪馬台国に至るまでの行程を矛盾のない形で再構成できました。

北九州東岸を東に向かうと瀬戸内海を渡ることになり、五万戸を擁する投馬国とは吉備を充てるのが適当となります。次の邪馬台国(近畿地方全域に相当)まで水行十日、陸行一月とあるのが悩ましいところですが、投馬国(吉備)から水行の場合十日、陸行の場合一か月と解釈するか、陸行一月は一日の間違いと設定すれば何とか辻褄は合わせられます。

詳しくは後の回で検討しますが、伊都国内にあった女王国が台与の時代に北九州東岸に移動し、一時的に滞在したため、そこが新たな女王国となり、後代情報として陳寿が入手したものと思われます。

二つの女王国に頭を悩ませた陳寿は、「魏志倭人伝」の記事に、狗邪韓国から不弥国までの各国間の距離の合計となる一万七百余里(注:理論的には4国と女王国間の距離はゼロであり、この場合の女王国までの距離は一万七百余里となる)と、北九州東岸部に東遷した後の女王国までの総距離万二千余里の両方を書いてしまったのです。(注:「魏志倭人伝」には狗邪韓国から不弥国までの各国間の距離が書かれているだけで、それを合計した距離が一万七百余里となります)

その結果、両者の間に約100㎞の誤差をもたらし、大きな混乱を招くこととなりました。伊都国内の女王国から北九州東岸に移動した台与一行は、同地にしばし滞在した後、船で瀬戸内海の各地に停泊しつつ大和に入ったのでしょう。

これに対する反論として、台与時代の北九州勢力が大和に移動する必然性が全くない点、大和には北九州の土器類などがほとんど出土していない点、などが指摘されています。けれども、台与時代から500年も前に遠賀川式土器と稲作が尾張にまで伝わっていますし、190年頃には饒速日が物部氏の前身となる人々を率いて、宇佐から大和に入っています。

実在するか否かの議論は別として、神武天皇もまた宇佐から岡水門(遠賀川河口付近)、安芸国、吉備国などを経て大和に入っています。また中国側の史書に書かれたように、倭国は争いが絶えなかったことも北九州勢力の東遷の理由の一つとなるでしょう。

「日本書紀」の神武天皇即位前紀には、即位前の神武天皇が塩土老翁から、東に美き(よき)地がある。と聞き、ここが国の中心だからそこに行って国を作ろうと言った、との主旨の記事が見られます。東の良き地とは食糧事情の良い豊かで争いの少ない国を意味していると思われ、これらを理由として彼らは東遷したと考えられないでしょうか?以上の例から、移動の必然性がないとの議論は否定されることになります。

北九州の土器類の出土がない点に関しては、3世紀後半の大和は東海、吉備、河内、山陰、北陸などの各地から大量の土器が運び込まれており(注:これは主に交易によるものと思われ、必ずしも大和王権の強大さに結び付ける必要はない)、北九州から海路での移動中に必要最小限の資材以外は持ち運ばなかったと理解すればよさそうです。

ところで、なぜ陳寿は投馬国と邪馬台国への経路を南水行と書いてしまったのでしょう?あまりにも常識からかけ離れ、誰もが悩みに悩む難問ですが、その理由を明らかにしたいと思います。陳寿にとって倭国内における不弥国までの行程は明快であり、位置もはっきりしていました。ところが同時に、陳寿の元には倭国に関して明らかに亜熱帯で琉球諸島を示すと思われるような気候、風俗、風習及び位置の情報が届いていたのです。

例えば、男子は皆顔と体に入れ墨をしている。その道里を計ると会稽東治の東(注:詳細は後の回で書きますが、会稽山の東、或いは福州の東)で琉球諸島に相当する位置になると言った記述。さらに(倭人が)持っているもの、持っていないものは海南島(注:中国の南端部でベトナムに近い島)と同じ。倭地は温暖で冬でも夏でも生野菜を食べ、皆裸足であると言った内容など、どう見ても帯方郡から万二千余里の距離にある倭国とは異なる位置と気候、風俗、風習の情報が満載になっています。(注:この件の詳細は後の回で書きます)

これら本来の倭国の位置とは異なる、気候や風俗、風習、位置情報との齟齬に悩んだ陳寿は、巨大な邪馬台国に亜熱帯の気候や風俗、風習を持つ南方の場所を充てることで齟齬を解消しようと考えたのです。その結果、元々東水行と原史料に書かれていた(或いは報告されていた)はずの投馬国と邪馬台国への行程を南水行に改変してしまったと推定されます。

その場合であれば、⑧南水行投馬国、⑨邪馬台国の後に、男子は皆顔と体に入れ墨をしている。から始まる気候、風習、風俗、位置などに関する情報を書き入れるべきだったのに、ここでも順序が間違っていたようです。まあ、海の向こうにある倭国の詳細情報はややこしすぎるので、スタッフに指示して適当な場所に入れさせ、それでよしとしたのかもしれません。(注:倭国が琉球諸島のように見える問題は後の回で詳細な検討を加える予定です)

少し話がそれましたが、いずれにしても、「魏志倭人伝」に書かれた行程や各国の位置、距離の記事を整理し再構成すれば上記ようになるのです。と言うことで、正しい順番に直したものを以下に書き入れます。但し、順番の入れ替えをわかりやすくするため、番号自体は変えずそのままとしています。

①郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。
②始めて一海を度る。千余里。対海国(対馬)に至る。千余戸有り。
③又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国(壱岐)に至る。三千ばかりの家有り。
④又、一海を渡る。千余里。末盧国(唐津市一帯)に至る。四千余戸有り。
⑤東南陸行。五百里。伊都国(糸島市一帯)に到る。千余戸有り。
⑥東南、奴国(福岡市から春日市一帯)に至る。百里。二万余戸有り。
⑦東行、不弥国(宇美町一帯)に至る。百里。千余家有り。
⑩女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
⑭女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
⑪次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。(注:合計21国)ここは女王の境界尽きる所。
⑫その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。(注:ここまでが北九州倭国で合計30国)

⑬郡より女王国に至る。万二千余里。(注:この女王国は後代に北九州東岸へ移動した女王国を指す)
⑮女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて…以下略。
⑧南(正しくは女王国の東)、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。
⑨南(正しくは東)、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

⑬以降は後代の情報なので行を開けています。上記に関し「魏志倭人伝」以外で、伊都国内南部にあった女王国が北九州東岸に移動したとする根拠を示す必要もありますが、既に書いたようにその論証は後の回とします。

⑮で女王国の東、海を渡ること千余里。と書かれ帯方郡の使節が行っていないのに里数が明示されているという問題があります。この情報は後代のものである点を踏まえると、帯方郡の使節から里数の測り方を学んだため表示できたのではないかと思います。

ただ水行の場合、一日当たりの航海が何里相当と言った形で里数にしている可能性があり、実際の距離とは差があると推定されます。それは狗邪韓国(金海市周辺)から対馬、壱岐、末盧国間の里数が、それぞれの間の距離に差があるにもかかわらず、どれも千余里になっていることから類推されます。

投馬国と邪馬台国までの水行が日数表示になっているのは、航海中に悪天候で停泊したり、食料補給などで各地に立ち寄ったりするため、倭人から話を聞き取った郡使がうまく里数に変換表示できず、単に日数のみを書いた結果そうなったとも推測されます。

さて記事11回分もの回数を重ね、ようやく卑弥呼の人物像や年代(年齢)、女王国と倭国の規模や構成などの難問に答えを出すことができました。その結果、邪馬台国は北九州に存在できないとの推論が自動的に導き出されています。ここまでの検討結果を以下に纏めます。

1女王国は伊都国内南部に存在する卑弥呼の宮殿施設一式に相当する。
2倭国は北九州の主要部分に相当し、30国で構成される。
3投馬国と邪馬台国は北九州に存在できない。


邪馬台国問題に関してはより具体的な論証が必要となり、これをもって最終結論とするのは性急過ぎるので、次回以降も様々な観点から見ていく予定です。

これで大きな山を越えたようですが、まだまだ行く手には険しい峰々が控えているようです。なので少し休憩を取りつつ、古代史とは関係のない記事で息抜きをしたいと思っています。

「魏志倭人伝」時代の倭国 その10

「魏志倭人伝」時代の倭国
02 /20 2021

前回の検討で女王国が伊都国内の南部と北九州東岸部の二か所あるように見える点を指摘しました。もちろん女王国が同時に二つ存在できるはずはなく、従って北九州東岸の女王国Ⓓは後の時代の情報だと言えそうです。この問題は一旦横に置き、女王国は伊都国内の南部の宮殿施設と暫定的に確定させたとして、では倭国の全体像はどうなるのでしょう?

倭国に関して「魏志倭人伝」は、今、交流可能の国は30国と冒頭で記しています。一方④の21国は遠すぎで詳細がわからないとも書かれています。相互に矛盾する内容に頭を抱えますが、ここは単純に、倭国は30国あるとすればいいのではないでしょうか。この観点に基づけば、女王国+その統制下の国々28国+狗奴国=30国が北九州倭国と設定できることになりそうです。

そう結論付ける前に、朝鮮半島南部に位置する狗邪韓国(釜山の西の金海市一帯)が倭国に含まれるかどうかを考えてみます。「魏志倭人伝」には、郡より倭に至るには・・・中略・・・その(=倭国の)北岸狗邪韓国に至ると書かれていました。この内容から、「魏志倭人伝」は狗邪韓国に関して倭国に含まれると認識しているのは間違いありません。一方朝鮮半島南部には弁韓があり「魏志韓伝」には弁辰狗邪国(注:弁韓は弁辰とも書く)の国名が書かれています。

この弁辰狗邪国が狗邪韓国のことだと思われるので、その場合狗邪韓国は弁韓に属し倭国ではないと判定されそうです。ただ「魏志韓伝」に、韓は、南は倭と接するとも書かれているので、その場合狗邪韓国は倭国に属するようにも見え、悩ましいところです。

悩みながらもつらつら考えれば、狗邪韓国が韓、倭のどちらに属するかは、実はそれほど大きな問題ではありません。「魏志倭人伝」は狗邪韓国を倭として書いているので、この国も含めて倭国は30国と考えればいいだけのことなのです。と言うことで、狗邪韓国問題も解決しました。

これまでの検討に基づき、各国の配置を以下のように整理しました。

①狗邪韓国(釜山の西側金海地方一帯)。対海国(対馬)。一大国(壱岐)。末盧国(唐津市一帯)。伊都国(糸島市一帯)。奴国(福岡市から春日市一帯)。不弥国(宇美町一帯)の合計7国は郡の使節が実際に見聞した国々と推定される。
②投馬国と邪馬台国は倭国の範囲外となる。
③の女王国は伊都国内の南側にある卑弥呼の宮殿施設を国と称したもの。
④斯馬国。巳百支国。伊邪国。次都支国。弥奴国。好古都国。不呼国。姐奴国。対蘇国。蘇奴国。呼邑国。華奴蘇奴国。鬼国。為吾国。鬼奴国。邪馬国。躬臣国。巴利国。支惟国。烏奴国。合計21国は卑弥呼の統制下にある。
ここまでの総合計①+③+④=29国。
⑤狗奴国。狗奴国は卑弥呼に敵対する国だが、中国側はこれも含めて倭国と考えている。
29国+狗奴国=30国で北九州倭国を構成。
⑥侏儒国。裸国。黒歯国。皆倭種とあり倭国に含まれないと想定。

結論的には①+③+④+⑤の合計が30国で倭国を構成していることになり、倭国は北九州の主要部分を占めていると判断されます。

以上で倭国と女王国の規模・構成を固めることができました。ただ、この構成は卑弥呼時代の倭国と女王国であり、前回で書いた北九州東岸のどこかにある女王国Ⓓは後の時代の情報と判断され、その詳細は後の回での検討となります。

また上記から、②の投馬国と邪馬台国が北九州に存在できる余地は全くない、と理解されます。邪馬台国は④の21国の多くに相当するとの見方もあるようですが、その場合、戸数不明の国々の総戸数(或いはその一部)がなぜ7万戸になるのか説明が必要です。

倭国の構成が固まったところで、中国側が北九州の主要地域を倭(倭国)と呼んだ理由を考えてみましょう。倭国の使節が魏の洛陽に到着し、魏側からあなたたちは自分の国を何と呼ぶのか問われたはずです。

ところが通訳がうまくいかず、我(わ)が国、(或いは吾(あ)が国)は多数の国邑で構成されている、などと答えたとします。魏側は(わ)が国名と勘違いして、(わ)の音に倭の表記を当てたのではないでしょうか?まあ、何の根拠もない推測に過ぎませんが、実態は案外このようなものだったのかも……。

余談はさておき、既に書いたように、倭地が、周旋五千余里ある点の解釈に関し、端から端説であれ、ぐるっと一巡り説であれ、北九州の主要部分に相当すると確認されていることから、①+③+④+⑤の合計が30国で北九州の倭国になるのは間違いありません。(注:こうした書き方をすると、だから邪馬台国は九州以外に有り得ないと短絡させてしまう方が多いように見受けられます)

ここまでの内容を纏めます。
1女王国は伊都国内南部になる卑弥呼の宮殿と付帯施設一式で確定。北九州東岸の女王国は後の回で検討する。
2倭国は端から端説であれ、ぐるっと一巡り説であれ、北九州の主要部分に相当する。倭国に含まれる国邑を合計すると30国となり、「魏志倭人伝」冒頭に書かれた30国と合致する。
4上記から、投馬国と邪馬台国は北九州に存在できない。邪馬台国東遷説はそもそも邪馬台国が北九州に存在しないことから、成り立たない。


今回で非常に重要な部分である女王国と倭国の位置・規模をほぼ確定できたので、次回はまだ結論の出ていない北九州東岸部の女王国Ⓓと邪馬台国問題を追究していきます。

酔石亭主

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